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広島簡易裁判所 昭和38年(ろ)362号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

本件本位的訴因は「被告人は、自動車運転の業務に従事中の者であるが、昭和三八年八月一九日午前零時二〇分頃普通自動車(広五せ九五―九二号)を運転し、時速約四〇粁で広島県安芸郡船越町松石新開附近国道上を、東方から西方に向い、同一方向に進行する普通自動車の後方約一〇ないし二〇米の距離を追従進行していたが、折柄五、六台の対向車を引続き離合し、そのライトに眩惑され一時前方注視が困難な状況にあったのであるから、この様な場合自動車運転者たる者は見透しが出来るようになるまで徐行するか又は場合によっては一時停止する等の措置をとり、前方左右を注視し、進路の安全を確認してから進行を継続し、もって事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに不注意にもこれを怠り、前方車の動静にのみ気をとられたまま漫然前記速度のまま進行を継続した過失により、折柄同所附近を歩行横断していた安中照和(当三七年)を約五ないし六米の至近距離に迫ってはじめて発見し、同時に衝突の危険を感じて急制動したが及ばず、自車右前部を同人に衝突させて、その場附近に転倒させ、よって同人に対し頭蓋底骨折を負わせた結果、同日午後五時五〇分頃広島市千田町一丁目四九〇番地の一、広島赤十字病院において、同人をして右頭蓋底骨折に因って死亡するに至らしめたものである。」というのであり、

予備的訴因は「被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和三八年八月一八日広島県賀茂郡豊栄町から広五せ九五―九二号普通自動車を運転し、広島市に向う途中、同月一九日午前零時二〇分頃、広島県安芸郡船越町松石新開飲食店一升前附近国道(巾員約一二米)を前照燈を減光しつつ西進していたが、自動車運転者たるものは常に法令に定められた最高速度を遵守するは勿論進路の前方及びその左右を注視して進行し危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるに拘らずこれを怠り制限時速四〇粁を超過する時速約五〇粁余りの高速力で、しかも進路前方に対する注視不十分のまま進行した過失により、折柄進路前方道路を右側から左側に横断していた安中照和(当三七年)の発見が遅れ約五、六米の至近距離に接近して、はじめて発見し衝突の危険を感じて急制動したが及ばず自車右前部を同人に衝突させ、よって同人に対し頭部打撲頭蓋底骨折等の傷害を与え、同人をして同日午後五時五〇分頃広島市千田町一丁目四九〇番地の一広島赤十字病院において死亡するに至らしめたものである。」というのである。

よって被告人に本件事故につき右各訴因にかかげられている業務上の過失があったかどうかを検討する。

一、≪証拠省略≫を綜合すると、

(一)  本件現場である広島県安芸郡船越町松石新開飲食店一升前附近道路は東は西条、呉方面に西は広島方面に通じる幅一二米の一級国道二号線の直線道路で、道路は平坦にアスファルト舗装されており、現場道路の北側および南側には人家等の建物が立ち並んでおり、広島県公安委員会による最高速度四〇粁毎時(終日)と規制され、普通人通りは少いが車輛の交通は頻繁なところである。(午前〇時三五分から午前二時迄に行われた司法警察員作成の実況見分の結果記載の調書には極度に輻輳する昼間から宵にかけての交通量に比して相当減少の状態ではあったが乗用車、定期大型貨物自動車等が比較的頻繁に通行していたとある。)事故当時は月あかりなく曇天の暗夜で且つ本件現場には直接道路上の照明となる街灯などの照明は全くなく本道路に沿っている「さえだ写真店」と飲食店「一升」の屋内からもれる照明が、うすぼんやりと路上に照射していたのみであって、その照射も道路中央部まで照射するものでもなく、交通車輛は多かったが現場附近の一升飲食店前で一名の佇立者と被害者がおったほか通行人は見当らなかった。

(二)  被害者安中照和は当日自宅で飲酒しその後、附近の飲食店「一升」に行きビール小瓶一本位をのんで帰路につき途中国道を渡ろうとして本件事故に遭ったものであって、詳細は不明であるが国道右端から左に向い通行中の車輛の間を早目に通り抜けようとしたものと推認される。

(三)  被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、事故当時普通乗用車を運転して国道左側部分を先行する自動車に一〇ないし二〇米の間隔をおいて時速四〇粁前後の速度で進行していたが、事故現場にさしかかるころ反対方向から連続して進行してくる自動車(証拠により五、六台前後)とつぎつぎに離合することとなり、その前照燈に眩惑されないため前照燈を減光しつつ適宜視線を左にそらしながらセンターラインの左寄り二米位の処を進行するという状況であったところ、前方道路中央の若干左側の地点を早目に歩いて左に横断している被害者をやや右斜前方約五ないし六米の距離に接近して、はじめて発見し急拠ブレーキをふみハンドルを左に切って避けようとしたが間にあわず本件事故となった。

以上の事実が認められる。

二、本位的訴因に、右事故は被告人が「対向車の前照燈に眩惑され視力を奪われて一時前方の注視が困難な状況に陥ったのであるからこの様な場合自動車運転者たる者は見透しが出来るようになるまで徐行又は一旦停止すべきであったのに、これをしなかったことによって発生したものである」と主張する点は、前示認定のように被告人は眩惑運転をしていたのではなく対向車の前照燈に視線を向けると眩惑され視力を失うので前照燈を減光しつつ適宜視線を左にそらしながら運転していたものであって(尤も本件は昭和三八年一二月一〇日公訴(略式命令請求)が提起され発せられた略式命令に対し同月二六日正式裁判の申立がなされたため通常手続に移行されたのであるが、その後である昭和三九年二月一二日に検察官に取調べられた小川強、榎田喜三郎両名の検察官調書に「被告人が眩惑運転のため一時前方注視が困難な状態にあったのに一時停止又は減速徐行せずに運転したため本件事故が発生したものである旨」の記載があるが現実に運転していたものでない単に同乗車である両名に被告人の自動車運転感覚が判る筈もないのに「被告人がげんわく運転していた」と供述すること自体不自然で検察官の誘導に迎合した結果の供述の疑いがあり措信しない)これは夜間対向車と離合する際一般にもとられているところであり、そのこと自体はむしろ状況に応じた態度として別段咎むべきものではなく、ただ現場附近で被告人が道路右方の注視が充分できない状況(右訴因のいうように眩惑されたのとは異り進路前方、左方は充分に注視できたのである)のまま「一旦停車もしくは最徐行」しなかったことはそのとおりであるが、しかし本件のように暗夜自動車を運転して進行中に連続して走行してくる対向車と離合を重ねる場合運転者は右対向車の進行部分である道路右方の見透が一時不充分になるからといって、特段の事情もないのに、歩行者が右対向車の間を通り抜けいつ進路にとび出してくるかも知れないことを予想し、その度毎に最徐行もしくは一旦停止し事故発生を未然に防止しなければならない業務上の注意義務があるものとは解されない。

当時事故現場前の飲食店「一升」前附近に一名の佇立者と被害者がおったというに過ぎず他に通行人は見当らなかったことでもあり、本件においては被害者の横断を予測すべきであった事情は何も認められない。

とすると、この不測の事態に備え一旦停車もしくは最徐行すべき義務ありとして被告人を問責することはできない(被害者は飲酒の影響かで交通状況の判断を誤り危険な横断をしたものであろう。尤も飲酒すると通行中の車を止めるとの風評がある。)

次に右事故は「被告人が前方注視義務を怠った」ことによって発生したものであると主張する。

ところで右の被告人のように暗夜対向車と間断なく離合を繰返し、その前照燈等により道路右方の視界が妨げられる状況においては、道路右端から早足で横断してくる歩行者は、対向車との位置関係、対向車の前照燈の光軸の方向等により対向車の前照燈を横切る黒い影として瞬間的に認めうることもあるが、一般的にいって右方においてはその確認は不可能もしくは極めて困難であり歩行者が進路前方(それも本件の場合先行の自動車との距離以下に限定される)に現われて、はじめて発見できるものであることが認められる。(≪証拠省略≫)

しかも本件においては被害者は服装も光線の反射しにくい薄い水色の碁盤の目のあるシャツと鼠がかったズボンのものであったが対向車の間を早目に歩いて進んできたことが推認されるだけで対向車とどのような位置から出てきたかなどが一切不明であるから右被害者の早期発見が可能であったとして、被告人が前方注視義務をつくさなかったことにより被害者の発見が遅れたと断定できるものかは、はなはだ疑問といわざるをえない。

しかるに、他に被告人が前方(右方)注視義務を怠ったために被害者の発見が遅れたと確認するに足る証拠はない。

また被害者発見後の被告人の措置に過失があったことも認められない。

したがって本件事故が被告人の前方注視義務違反を原因として発生したものということもできない。

次に予備的訴因が被告人は「制限時速四〇粁を超過する時速約五〇粁余りの高速力で、しかも進路前方に対する注視不十分のまま進行した過失による」と主張する点は前示認定に反し認められないし、したがってこれを前提とする過失の主張も亦採用できない。

以上本件交通事故について証拠上被告人に各訴因主張の過失はいずれも認められないから刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

尚、弁護人は本件は憲法第三七条一項の公平な裁判所の迅速な裁判の保障条項に反する異常な事態が生じており訴訟手続違反として公訴棄却せられたい旨主張するが、そもそも具体的刑事々件における審理の遅延が右の保障条項に反する事態に至っているか否かは、遅延の期間のみによって一律に判断されるべきでなく、遅延がやむをえないものと認められないかどうか、これにより右の保障条項がまもろうとしている諸利益がどの程度実際に害せられているかなど諸般の情況を総合的に判断して決せられなければならないのであって、本件のごとく事案の困難さに加えて、度重なる鑑定、検証等により時間を要したため、その結果として審理に長年月を要した場合などはこれに該当しないこと、もちろんであり迅速な裁判をうける被告人の権利が侵害されたということはできない。

故に弁護人の主張は採用することができない。

よって主文のとおり判決する。

(裁判官 福原麓)

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